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茨城歴史散歩
[2012-07-25 up]

坂本金吉の墓 - かすみがうら市

霞ケ浦漁法伝えた「九ちゃん」の祖父


坂本家の墓

坂本金吉、九氏の姉・テル子、坂本寛(左から)

湖に架かる橋のたもとに建つ東福寺の境内に、霞ケ浦の風物詩「帆引き船」を秋田県八郎潟地方に伝えた坂本金吉(かねきち)と家族の墓がある。

一家で秋田県に移住
人の背丈を優に越える真壁石で造られた墓石にある「坂本家」の文字は、3代前の本田隆観住職が揮ごう。そこに眠るのは金吉(昭和10年没)と妻のハマ(同4年)、長男の寛(ゆたか、同44年没)の親子3人。

1864年(元治元)田伏村(現在のかすみがうら市田伏)に生まれた坂部金吉は、坂本ハマに婿入りし坂本姓となった。生活の糧は霞ケ浦の伝統的な帆引き網漁で、ワカサギやエビ、コイなどの川魚を獲るほか、五十集屋(いさばや)で加工された佃煮や桜えびを背負って各地を行商して歩いた。

ある時金吉は八郎潟に豊富な漁場があると聞いて移住を計画。「仲間と下見も兼ねて何度か同地を訪れていましたが、結局移住したのは坂本一家だけだったようです」とかすみがうら市郷土資料館の千葉隆司さん。

詳しい年代は分かっていないが、明治28年から33年の間に秋田県浜口村芦崎(現・三種町芦崎)に居を構えた一家は、蝦樽(えびだる)やワカサギ網、帆引き網漁(全国的には打瀬網漁)などの伝統的な霞ケ浦漁法と水産加工技術を伝え、八郎潟の漁業振興に大きく貢献した。一家はそこで約20年生活し、金吉の弟の会社に息子の寛が就職するのを機に川崎へ移り住んだ。

「世界の九ちゃん」誕生
川崎に移住後、寛は荷役請負業の丸木組で働き始め、今で言う支店長クラスまで上り詰めたという。そして笠間から嫁に来た二番目の妻・大島いくとの間に3人の子をもうけた。三番目の子どもは前妻との間に6人の子がいたので実質9番目に当たり、名前を九(ひさし)と名付けた。その子どもこそ、後の国民的歌手・坂本九。

金吉の墓がある東福寺の本田範江さんは、寛の七回忌に9人兄弟とその家族が境内にあった大きな松の木の下に勢ぞろいした光景を
今も鮮明に覚えているという。「九ちゃんは本当に穏やかで人懐こい笑顔が印象的。みんなに好かれる人でした」。

1985年(昭和60)8月12日、日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落したとき、テレビのニュース速報を見た夫が「九ちゃんが亡くなった」と叫び、ただただぼうぜんとしたという本田さん。墓の傍らには、9人兄弟の2番目の姉・喜久代の次男で世界的に有名なサックスプレーヤー・阿部薫の納骨堂もある。命日には今も全国から熱心なファンが手を合わせに来るという。

霞ケ浦の坂本さん
金吉が八郎潟に残した業績は、その後も茨城と秋田を結び付けていた。寛が在籍した芦崎尋常小学校(八竜町立浜田小学校芦崎分校、現在は廃校)の開校90周年記念事業では9人兄弟が記念の緞帳を贈り、坂本九は自身のテレビ番組で芦崎分校の子どもたちとふれ合った。金吉は地元で「霞ケ浦の坂本さん」と呼ばれ、その業績を称える石碑も建てられたという。

平成14年、一家がかつて住んでいた八竜町芦崎地区(現在は三種町芦崎)では『うたせ舟物語―ブラックバスと坂本九』と題したミュージカルが制作され、地元の有志によって現在も上演され金吉が結んだかすみがうら市と八郎潟の友好関係を伝えている。


 

坂本金吉の墓 - 地図

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