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茨城歴史散歩
[2008-05-16 up]

筑波海軍航空隊遺構 - 笠間市

南海に散った若人の思い今に


現在の県立友部病院(写真上)

笠間市の県立友部病院には太平洋戦争中、ここに司令部を構えた筑波海軍航空隊の遺構がほぼ当時のまま残る。

操縦訓練から特攻へ

 1934年(昭和9)8月、霞ケ浦海軍航空隊の友部分遣隊として開設。当初は九三式陸上中間練習機(赤トンボ)による操縦訓練がメーンだったが、38年(昭和にに筑波海軍航空隊として独立、44年(昭和19)3月かは実戦部隊として零戦が配備され、急旋回や薄暮飛行などの訓練が極めて短期間のうちに行われた。それは不利な戦局を打開するため、多くの若者を特攻隊員に育てることを意味した。

◇   ◇   ◇

「丸く突き出たバルコニーのある部屋が昔の司令室でした」と笠間市教育委員会の南秀利さんが指差した先は院長室。病棟内は大理石を惜し気もなく使った重厚な階段や床、白いペンキの木枠やむき出しになった配管が当時のまま残る。


プロ野球選手の特攻死

 グラウンドには高さ2m弱の堅牢な石造りの号令台がある。裏側から中に入れる構造で「訓練中の隊員を監視したり、上官の訓話に使われたのでしょう」と南さん。訓練の合間にキャッチボールに興じる隊員たちの姿も見られた。
 名古屋軍(現中日ドラゴンズ)のピッチャーとして巨人のスタルヒンと投げ合うなど活躍した石丸進一少尉は学生でもあったため兵役を免れていたが、44年(昭和19)予学生として入隊。同期の法政大野球部の4番・本田耕一少尉とは出撃前のキャッチボールが映画化された。翌年春、石丸少尉は神風特攻隊第五筑波隊に配属され、5月11日鹿屋から出撃。沖縄の米軍に突入し、特攻死した唯一のプロ野球選手となった。3日後、本田少尉も種子島沖で特攻、二人の野球人は南の海に散った。


流行歌がつないだ命

 病棟裏には素朴な供養塔が建つ。38年(昭和13)から司令を務めた古瀬貴季中佐の揮毫で、訓練中に亡くなった隊員のために建立した。

 戦後、フィリピンで連合軍に捕らえられBC級戦犯として死刑判決を受けた古瀬中佐は、思わぬ形で九死に一生を得る。獄中で戦犯たちが故郷を歌った「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を流行歌手・渡辺はま子がレコード化し刑務所での慰問コンサートで減刑・釈放を嘆願。その声はついに大統領の心を動かし53年(昭和28)、古瀬中佐は特赦で祖国の土を踏んだ。「常日ごろ部下を思いやった人徳が奇跡の生還につながっ
たのかも」と南さん。帰国後は保険の外交員として働き、60年(昭和35)に病死したという。


航空隊が結ぶきずな

 友部町史の編さんをしていた86年(昭和61年)、南さ資料の中に航空隊OBの名を見つけた。東京に訪ねると、元隊員の木名瀬信也さんはたくさんの遺品や写真を前に、あふれる涙とともに思い出を語った。二人は元隊員らから寄付金を募り99年6月、かつて格納庫や滑走路があった付近に慰霊碑を建立し、毎年6月に旧交を温めている。

◇   ◇   ◇

 終戦までに筑波海軍航空隊からは戦死1000人超、うち13人がフィリピン海戦で、60人が沖縄戦で特攻死した。「隊員たちが身を挺(てい)して伝えたかった思いや航空隊があった証しを、思想・信条などで曲げることなく、事実として後世に残したい」と語る南さん。散華した隊員たちは死の瞬間、果たして何を願っただろう―。遺構は訪れた者に、その思いを問いかける。

■ 問い合わせ
Tel 0296(77)7533/笠間市友部公民館


 

筑波海軍航空隊遺構 - 地図

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